アドラー心理学サロンです。
多くの人々は、他人との相対的な関係の中から多かれ少なかれ劣等感を抱き苦しんでいます。
学歴から職業、外見まで多種多様な原因が存在し、その比較から「自分には何の価値もない」、「自分はこの程度なのだ」といった判断をして劣等感を抱きます。
劣等感の正体とは
人々を苦しめる劣等感の正体は客観的な事実ではなく、主観的な解釈です。
つまり、自分で解釈することができるのです。
この世には客観的な事実は存在せず、全ては主観的な解釈が事実となります。
様々な物事との相対の中で客観性を求めても、それは主観の延長でしかありません。
多くの人間がメディアなどでこれが正しい、間違っていると言っていても、多くの人が支持する事が真理である根拠にはなりませんし、論理性にも前提となる主観的前提が必要となる限りは限界があります。
例えば、外見に劣等感を持ちコンプレックスに苛まれていたとします。
ここで大切なのは、その外見について自分がどのような意味付けをし、どのような価値を与えるのかです。
外見が良くても、美人は他人を緊張させる要素になったり僻みの対象になることだってあるのです。
どんなことでも良いことも悪いことも列挙するとキリがありません。
なぜ人は劣等感を持つのか
人は無力な状態で生を受けます。
それから無力な状態から脱していこうとする普遍的な欲求を持っており、これを「優越性の追求」とアドラー心理学では呼びます。
これとは反対の概念が劣等感となります。
自分の理想と異なる自分に劣っているかのような感覚を持つことです。
劣等コンプレックスから抜け出しましょう
自らの劣等感を言い訳に、「どうせ自分なんて」と考えて向上に繋がる行動を避ける状態を「劣等コンプレックス」と呼びます。
本来、コンプレックス=劣等感ではなく、コンプレックスとは色んな感情が混ざり合った状態を指す言葉であり、こちらが正しい名称です。
これに陥ってしまうと、例えば学歴が低いから就職なんてできない、出世なんてできるはずがないという何の因果関係もないところに因果関係があるように自分を説得して納得してしまう状態が出来上がります。
先の学歴の話であれば、相関関係がある場合もあるかもしれませんが因果律は客観的に存在しません。
自慢をする人には強い劣等感が潜んでいる
「自分はAだからBなんてできない」という理屈は、Aさえなければ自分は価値の高い存在であるという暗示です。
勇気を持って自分に欠如した部分を補償していくことができるのが、劣等感の正しい扱い方であり、その勇気を持たずに言い訳にしてしまうことは劣等コンプレックスとなります。
劣等コンプレックスは、強すぎると特殊な心理状態である「優越コンプレックス」になることもあります。
自分に欠如している部分を補償する勇気を持たない場合には、場合によっては自分が優れているかのように振る舞い、偽りの優越感に浸ろうとします。
この状態が優越コンプレックスです。
よくあるのが「権威付け」です。
有名人や権力者と懇意であることはひけらかしたり、過剰なブランド好きなどもこれに含まれます。
権威と自分を紐づけて、自分を優れているように見せかける偽りの優越感に浸ろうとします。
つまりは自慢する人は自分に自信がなく、劣等感を持っているという解釈ができます。
また、不幸自慢をすることで異質な優越感に浸ろうとするパターンもあります。
不幸自慢をする人は、不幸であることを自分は「特別な存在」であるとし、それを武器に他者を支配しようとします。
こうした人達は「こんなに苦しんでいる私の気持ちなど、貴方に理解できるはずがない」などと言い、他人から特別扱いを受けようとします。
この状態になると、勇気を持てない限りは人は永遠に不幸を必要とすることになります。
劣等感を解消できる考え方の第一歩は、人生は他人との競争ではないと認識することです。
つまり、「優越性の追求」という欲求を、常に「理想の自分」へ向けて競争し、常に前進していくことが大切です。
隣の芝生は青いと言いますが、自分の庭だからこそ近い為に雑草やゴミなど欠点が見えますが、他人の庭にだって種類や量は違えど雑草やゴミなどの欠点はあるものです。
比べようがない自分と他人という存在を、無理に比較してしまうことによって人は苦しむのです。
あなたも他人も、それぞれが他人には取って代わることのできない絶対的な存在であり、そんな自分を否定して他の誰かになろうとしてしまうことは不幸の始まりです。
かけがえのない自分を大切にして、自分の勝手な主観で自分を不幸だと決め付けて、不運を嘆くよりも今ある当たり前のものに感謝し、自分にやれることを前向きにやっていくことが幸せへの道なのです。