アドラー心理学サロンです。
たとえ誰にも愛されなくても、隣人愛を忘れてはならない。
恋愛を通じて幸せになるには、「いかに愛してもらうか」でなく「いかに愛するか」を考える必要があります。
その「愛し方」を正しく学び、実践することで、我々は愛の経験を通じて幸福を得ることができます。
本記事では、アドラー心理学の共同体感覚の概念の一つである、隣人愛についてをもとに誰かを愛することについて解説します。
目次
比較の中から、真実の愛は生まれない
「あの人は嫌い、でもあなたのことは好き」という人はたくさんいらっしゃいます。
この考え方は、他の人を愛さないことを、相手を愛していることの証明であると考えることができます。
しかし、これでは本当に愛していることの証明なのでしょうか?
ドイツの新フロイト派精神分析学研究者エーリヒ・フロムは、「人を愛することは能力である」と言及しています。この能力は特定の誰かだけを対象にするものではなく、他の人を排除するものでもありません。
たとえば、これは舟を漕ぐ能力に例えることができます。
私が好んで使う表現である「自分の人生の舵取りは自分で取る必要がある」か因んでおります。
舟を漕ぐことができる人は、どんな舟にも乗ることができます。もちろん、どんな舟に乗りたいと思うかの好き嫌いはあります。ただ、どの舟に乗るか選択権を得るためには、舟を漕ぐ能力があることが前提になります。
愛する能力もこれと同じく、「あの人は嫌いだけど、あなたは好き」という人は、この人と比べるとこの人は魅力的に見えるという、他者との比較から生じる好意であり、本質的な愛する能力を持っているとはいえません。
「あの人は嫌いで、あなたのことは好き」と愛情を持つことは、単に他の人を切り捨て、比較してあなたを好きだと言っているだけであり、本当にあなたを愛している訳ではないとアドラー心理学では考えます。
「あの人もあなたも好きだが、あなたはもっと好き」というと一夫多妻制や浮気、不倫を肯定しているだけの話に聞こえてしまうかもしれませんが、そういった意図ではありません。
隣人愛
隣人愛は、アドラー心理学を代表する隣の人を愛する共同体感覚の一つの考え方です。
この隣人愛は、ただでさえ理解するのが難解であるとされるアドラー心理学の概念の中でも難しい概念です。
余談ではありますが、アドラー心理学は理解して完全に自分の生き方に落とし込むのに今まで生きてきた年数の半分の時間が必要になると言われています。
敵であっても、すべての人間を愛するべきであるとするなんとも神格性の高い概念ですが、人間にはそもそも悪い人間はいないのです。
「罪を憎んで人を憎まず」という考え方があります。
仮にその人が行なった「行為」が「悪」であったとしても、それはその人にとっての「正義」であったりもするのです。あなたの「正義」の反対は他人の「正義」であることも非常に多いのです。
アドラー心理学では、人は存在そのものに価値があるとしており、「行為」のレベルで人間の存在価値を決めるべきではないと考えます。
何の役にも立たないような無力な赤ちゃんやおじいちゃんやおばあちゃんを存在価値の無い人間だと考えることはできません。
未来価値や過去の価値なんて換算することもできませんし、そもそも人間が人間の価値を決める道理はありません。
人間は存在するだけで、誰かを幸せにしているのです。
あなたが憎む人は、あなたにとっては悪人かもしれませんが、他の誰かにはかけがえのない存在なのです。
つまり、その存在自体の価値がある限り、存在の価値はマイナスになることはありません。
「こうあるべき」という姿から、人をゼロからの足し算でその人の存在を見るのです。
学校や会社の成績システムによって悪癖がついてしまっていることでしょうが、「行為」による人の評価というのは、限定的な組織などの共同体において役割や報酬を決める際に、その共同体を繁栄させる為に人を評価する立場の人間が行うことです。
前置きの説明が長くなってしまいましたが、ゼロベースで人を足し算してその存在を認識できるようになり、人を愛する姿勢を持つことで、「あの人は嫌いだから、あなたが好き」といった比較の中での「愛」は不要になります。
もちろん、中にはあなたに危害を加えようとしてくる人間もいますので、人を見る目は必要になります。
嫌いでなくても、合わない人や関わるべきではない人間はいますので、その場合にはそっと距離を取るのです。
結論としては、「誰に対しても愛そうとするなら愛することができる、最初に愛があって、そこから特定の誰かを深く愛する」という姿勢が本質的な「愛」であると言えます。