アドラー心理学サロンです。
私たちはどうにもありのままの自分と直面することを怖れ、どうしても受け入れることに抵抗を感じて私ではない誰かを演じて生きていることも多いものです。
そこで本記事では、ありのままの自分を受容する方法、それからそのありのままの自分とどう向かい合って生きていくのかについてご説明します。
ありのままの自分をさらけ出せないで、本来の自分ではない他の誰かをいつも演じてしまうと、とても息苦しい人生となってしまいます。
もちろん、職業上の理由や状況によっては多少なりとも演技は必要になるでしょう。
しかし、本来のありのままの自分を否定し、自己受容することができない状態が続くことで非常に辛い思いをされている方も沢山いらっしゃいます。
こうしてありのままの自分を受け入れることができない原因について先ずは見ていきましょう。
一番の原因は、「自分への執着」です。
意外かもしれませんが、ありのままの自分に自信を持って生きることができないのは、周りの他者のことに関心を持ち、周囲の人たちのことを考えているからではないのです。
ありのままの自分に自信を持って生きることができないのは、自分にばかり関心がある「自分への執着」が原因なのです。
つまり、ありのままの自分を自己受容するには、「自分への関心」を「他者への関心」へ切り替えることが大切なのです。
ありのままの自分を受け入れることができない人は、自己中心的なのです、自分を愛するナルシストなのではなく、自分自身を忌み嫌う現実主義者であり、自分への嫌悪が強いあまりに自分にしか関心がなく自分のことしか見ていないのです。
自分自身に自信が持てないからこそ、自意識過剰になっているのです。
「こんなことを言ったら馬鹿にされるかも」、「面接で失敗したら家族や友人に何て言われるだろう」、「落ちたら馬鹿にされて恥ずかしいからこの大学を受験することは止めよう」といったように、自意識過剰になると実際以上に余計なことを考えてしまい、躊躇して自分の行動に制限をかけてしまう。
そして、その過剰な自意識が自分の行動の一挙手一投足、一つ一つに制限をかけて縛り付けられてしまうのです。
それでは、どうすれば自意識に邪魔されず、ありのままの自分を振る舞うことができるのでしょうか?
前述の通り、これは非常に多くの人達が悩んでいることだと思いますし、とてもありのままの自分で振る舞うなんてそもそも無理だと思われている方も多いことでしょう。
実はこれは考え方を一つ変えるだけで簡単に克服できます。
まず、なぜ自分がありのまま振る舞うことを躊躇い、別人になる演技をしているのか、この「目的」にはどんなものがあるでしょう?
ほとんどの人が、「下に見られなくない」、「馬鹿にされたくない」、「笑われたくない」という目的を持って演技をしているのではないでしょうか?
要するに、ありのままの自分に自信を持つことができず、ありのままの自分をさらけ出すことによる対人関係のトラブルを回避しようとする目的があると考えられます。
ここで、どうすれば良いのかというとやはり共同体感覚が大切になります。
ポイントは、自己への執着を他者への関心に切り替えて、共同体感覚を持つことであり、そこで必要となるのが「自己受容」と「他者信頼」それから「他者貢献」の3つとなります。
「自己受容」
「自己受容」とは、自己肯定とは異なり、ことさらのポジティブ思考になって自分を肯定して前向きに元気良くなるという意味ではなく、そのままの取り換えのきかない自分を受け入れることです。
自己肯定は、ありもしない能力が自分にはあると思い込んで「私は何でもできる」と暗示をかけることであり、自分に対する嘘を重ねる優越コンプレックスに結びついてしまいます。
つまり、「自己受容」とは、「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めて分離し、肯定的な諦めを持つことなのです。
「変えられるもの」は進んで変えていく「勇気」を持つことで成長し、ありのままの自分への自信を強固にすることができます。
私たちは、何かの能力が無い訳でも足りない訳でもなく、挑戦する「勇気」が足りないだけなのです。
「他者信頼」
「他者信頼」とは、他者に対して無条件の信頼を寄せることです。
アドラー心理学では、対人関係の土台には、「信用」ではなく「信頼」が成立する必要があると考えております。
相手が裏切るのか裏切らないのかは他者の課題であり、自分はひたすら「自分がどうするのか」だけを考えて実行していけば良いのです。
「あなたが私を裏切らないのなら、私もあなたを信じます」というのは、信頼ではなく担保や保証を求める信用になってしまいます。
あなたを裏切るか裏切らないかは他者の課題であり、そこに介入することは不可能なのです。
もし裏切られてしまったのなら、そういう人間を信頼してしまった自分にこそ人を見る目がなかったと思い新しい関係を構築していくしかありません。
決してアドラーは無条件に道徳的な価値観に基づいて人を信頼することを推奨しているのではありません。
相手が信頼できる人間なのかを判断する眼を養い、基準を設けていくことが必要です。
しかし、無闇に信頼することを恐れていると、結局誰とも深い関係を築くことができないままになってしまいます。
「他者貢献」
「自己受容」より、「自己への執着」を、「他者への関心」へ切り替えること、それから「他者信頼」によって他者へ無条件の信頼を寄せることで、他者を仲間であると見なすことができます。
この他者を仲間と思うことができれば、自分の所属する共同体に居場所を見出すことにもなり、「ここにいてもいいのだ」という所属感を獲得することが可能です。
つまり、「ここにいてもよいのだ」という所属感と他者を仲間であるとする感覚を得るためには、「自己受容」と「他者信頼」は必要不可欠なのです。
要するに、他者を敵として見なしている人は、自己受容と他者信頼が十分ではないのです。
「共同体感覚」を獲得するには、「他者貢献」がそれに加えて必要となります。
「他者貢献」とは、仲間として認識した他者に対して、何らかの働きかけをして貢献しようとすることです。
ここで言う「他者貢献」とは、自己犠牲の精神から自分を犠牲にして周囲の人達へ尽くすこととは一線を画します。
アドラー心理学では明確に自己犠牲を否定しており、「他者貢献」とはむしろ「自分」の価値を実感するために行われるべきことなのです。
たとえ仲間である他者から感謝の言葉を聞けなかったとしても、感謝をされなかったとしても、貢献行為を行って主観的な貢献感を持つことが大切なのです。
周りの人達が喜んでくれているのかもわからない、ましてや感謝の言葉も感謝の念もないことを進んで行うことに意味があるのか?
と思われる方もいらっしゃることでしょう。
たとえば、街の掃除をしていたとして、誰からも注目されず、誰からも感謝の言葉一つとしてない中で、あなたが周りに対してなぜ誰も手伝わない?、なぜ自分だけこんな意味のないことしてるの?と考えてしまうとそれは他者からの承認を求める承認欲求になってしまい、下手をすると他者を敵であると認識してしまいかねません。
これでは街の掃除も貢献活動ではなく、偽善活動になってしまいます。
つまり、貢献感は主観的な自己満足で十分なのです。
相手が自分の貢献的行為を疎ましく思っている場合もありますが、その場合には直接本人との話し合い等の調整が必要です。
こうして、「共同体感覚」を得ることでありのままの自分をさらけ出し、そのありのままの自分と向き合って自分を健全に高めていくことができることでしょう。